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ミーシン先生の本より、トリノ - 計画された勝利6

のつづきです。


 そして、不幸が起こりました。モスクワで行われた世界選手権でショートプログラムの後に棄権しなければならなくなった鼠径部の怪我です。当時、これが彼のキャリアの終わりだと考えることもできました。現世界チャンピオンが、ホームで行われる世界選手権に出場するということを想像してみてください。これはスケーターの人生で一度、もし約15年間休養なしで出場しても多くて二度しかない試合です。一万人以上の観客が客席にやって来て、自国のアイドルを歓迎し、報道機関、テレビは大騒ぎ。しかし、試合を棄権しなければならない。もしジェーニャがフリーで演技をしていたら、彼は世界選手権の表彰台に立てただろうと私は思います。しかし、その場合オリンピックで勝てたかどうかは自信がありません…。

 ところで、この世界選手権ではステファン・ランビエールが優勝しました。そして、試合後のプレスカンファレンスで彼は最初にこう言いました。≪アレクセイ・ミーシンに感謝します。≫ 両親、コーチ、振付師、そして私に感謝しました。私の教え子ではなく、ただ私のレッスンを受けただけの選手から感謝されたのは初めての出来事でした。こういった出来事が2度目に起きたのは、カロリーナ・コストナーがヨーロッパ選手権で獲得した5つの金メダルのうちの一つを獲った時でした。彼女がチャンピオンに決まった後、カロリーナは観客席の私が座っている場所に近づいて、私に向けてお辞儀と感謝のしぐさを見せました。

 ハビエル・フェルナンデスは今でも温かさと感謝の気持ちで私を迎えてくれます。ハビの故郷であるスペイン北部のハカで、私は10年間合宿を行っていました。そこで彼は姉のマリヤ(…と書いてあるんですがラウラさんのことでしょうか?)と毎夏私の所でトレーニングしていました。そして私は彼のコーチの指導者でした。後に彼のキャリアがとても成功したことは嬉しいことです。私は隠しません。なぜなら、かつての私の生徒たちの成功でさえ、私はいつも自分の成功のように受け取っていますから。専門家たちは、彼のジャンプテクニックが今でもカナダ式ではなく、彼がまだ若い時に身に付けた私たちのものだと気付く事ができるでしょう。

 …私たちが最終段階に入った時、既に全てが一つのことに左右されていました。どんな状況も、これがオリンピックに勝つのに役立つのか、という観点からだけ検討していました。ジェーニャは本に書かれているとおり、アスリートとしての行動の規律を守り、文字通り厳しくなりました。氷上、氷の外、日常生活で。彼はディスコやレストランへ行くのをやめ、並外れた意志力を発揮しました。特にロシア人にとって、試合に勝った後にシャンパングラスを拒否することが極めて型破りであることには同意していただけるでしょう。


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