ランビのお誕生日に出てた記事です。
世界が彼のスピンに魅了された!プルシェンコと競った2000年代の≪フィギュア≫のスターは今どこに
スイスのフィギュアスケーター、ステファン・ランビエールは、ジュニア時代に世界のエリートの中に飛び込みました。彼は男子シングルスケートで、荒々しい技術に長けた選手だけではなく、上品で信じられないくらい優雅な青年でも勝つことができることを証明しました。ランビエールは24歳で引退しましたが、オリンピックメダリストと2度の世界チャンピオンになり、さらにフィギュアを劇的に変えることに成功しました。今日、ステファンは35歳になります。この機会に、SPORT.TUT.BYは彼の輝かしいキャリアを思い出し、スイスの天才が今どこにいるのかをお話しします。
寄付によるトレーニング
ステファン・ランビエールは、スイスのフランス語圏で生まれました。彼の母親はポルトガル出身で、父親はスイス人です。ステファンは、姉の影響で7歳からフィギュアスケートを始めました。
彼が14歳の時、両親が離婚しました。母親は、当時既に国内ジュニアチャンピオンだった息子が好きなスポーツを辞めなくていいように、追加の収入源を探さなければならなくなりました。
その頃、スイスにはフィギュアスケーターへの国からのサポートはありませんでした。ランビエールの回想によると、トレーニングを1シーズン続けるのに約10万ドルかかったということです。
そして、未来の世界チャンピオンのおじは、ボランティアが彼のためにお金を寄付できるファンクラブを開設することを提案しました。このアイデアはうまくいきました。ファンクラブはサポートを受け、ランビエールのキャリアの終わりまで続きました。
プルシェンコとのライバル関係、怪我と復帰
ステファン・ランビエールがシニアデビューしたのは2001年でした。ブラチスラヴァのヨーロッパ選手権で、彼は初めてロシアのエフゲニー・プルシェンコと氷上で会いました。プルシェンコはのちに彼の最大のライバルになります。最初のヨーロッパ選手権で、ランビエールは9位に留まりましたが、1年後にローザンヌで行われたヨーロッパ選手権では4位になり、それで2002年のオリンピックに選ばれました。
まさにホームのヨーロッパ選手権で、ステファンは有名なフリー、シルク・ドゥ・ソレイユのキダムを演じました。このプログラムで、彼は自分が氷上の本物のアーティストであることを示しました。ランビエールのキャリアで最初のオリンピックは、15位に終わりました。しかし、次のオリンピックまでに、彼は男子シングルスケートでトップの地位を確立しました。ステファン・ランビエールは2005年と2006年の世界選手権(ただし、両試合共エフゲニー・プルシェンコは不在)で2つの金メダルを獲得しました。
20歳のランビエールは、ソルトレイクシティの悔しい2位の後、金に飢えているプルシェンコの渇望をよく理解していましたが、トリノオリンピックに優勝候補の一人として出場しました。オリンピックのショートとフリーの結果、彼はロシア人に約30点差で負けました。トリノでプルシェンコは初めてオリンピックチャンピオンになり、ステファン・ランビエールは銀メダルをコレクションに入れました。
2008年、22歳のランビエールは鼠径部の怪我のため、思いがけず引退しましたが、2009年、自分のキャリアで3度目のオリンピックに出場するために復帰しました。
- 男子シングルで金メダルを獲ることは途方もない夢です。しかし、同時に真の目標です。
と、9度のスイスチャンピオンは打ち明けました。
バンクーバーで、ステファンは既にスターとして出場しました。彼は自国の旗手になり、決闘やライバルとの戦いに行くのではなく、ショーとしてオリンピックのリンクに出るつもりだということを強調していました。そしてそれが彼の全てでした。
- プルシェンコとのライバル関係からは何も期待していません。
と、ランビエールは強調しました。
- ライバルと直面して勝たなければならないテニスと、フィギュアの試合が似ているとは感じません。ショーに近いものです。氷上にいる時、自分の技術を見せるために、私には5分間の時間がありますが、誰も私と対戦してはいません。私がオリンピックチャンピオンまたはヨーロッパチャンピオンになるかどうかはジャッジが決めます。
ジャッジはバンクーバーでのランビエールの順位は4位に留めました。2つのプログラムの合計点で、彼は日本の髙橋大輔に0.5点差で負け、オリンピック後、24歳でアマチュアスポーツから完全に引退する決意をしました。
氷上のアーティスト
それからもう10年が経ちました。しかしスポーツ界の皆が、信じられないくらい優雅なスイス人のことをまだ思い出しています。彼は男子≪フィギュア≫の二者択一の世界にどんなものがなり得るかを見せました。
ランビエールは信じられないほどのアーティスト魂を持ったオリンピックメダリストです。彼自身、フィギュアスケートは、自分の俳優のような一面とダンスプログラムを通して感情とアイデアを表現できる可能性によって、まだ7歳の彼を惹きつけたと打ち明けていました。
- 私にとってフィギュアスケートは、あなたが書き上げようとしている本のようなものです。滑る時、ある物語を書く時、その責任は自分で負うものです。
と、彼は説明しました。
ランビエールの特徴はいつもスピンでした。彼は宇宙的なスピードでスピンしました。シットでもアップライトでも正確な軸と珍しいポジションで。
スイスチャンピオンは、ときどき回転不足と転倒による減点のことを忘れたかのように夢中になりながら、全ての自分のダンスの中で解き放たれていました。おまけに、ミスしてしまっても、彼はアリーナ全体をうまく盛り上げました。
- 氷上での自己表現方法は非常に多くあります。それに、功績や自分自身の視野の拡大には余地があります。しかし、空中での回転数に限定する必然性はありません。
と、スイス人はまだ確信しています。
キャリアを通して、ステファンは自分が弱くなることを許しませんでした。コーチたちは、彼は4回転トウループと嫌いなトリプルアクセルを磨き上げるため、毎晩トレーニングしていたと言っていました。そのため、キャリアの終わり頃、彼と仕事していた振付師のサロメ・ブルナーが、彼にはもう事実上第三者からの助言は必要ないと指摘したのは驚くことではありません。
- ステファンは傑出したアーティストで、現代のフィギュアスケートのルールに縛られた天才的な≪スピナー≫です。
と、ランビエールについて、有名なロシアのコーチ、アレクセイ・ミーシンは話しました。
- 私は彼の引退を悲しい思いで受け入れました。音楽家が傑出した演技者仲間の喪失をどう感じていることか。
自分の学校と新しい役目
引退後、ステファン・ランビエールは商業ショーに出演し始め、故郷に自分のフィギュアスケート学校を開設しました。そして、他のスケーターたちのためにプログラムの振り付けも始めました。
引退後の最初のシーズンに、ステファンが、バンクーバーのメダル争いで彼を抜いた日本の髙橋のエキシビションナンバーを振り付けたのは興味深い事です。
その後、ランビエールは、安藤美姫、フローラン・アモディオ、ミハル・ブレジナ、カロリーナ・コストナー、ユリア・リプニツカヤなど、世界のフィギュアスケートトップ選手の振付をしました。
2016年から、ランビエールはラトビアのスケーター、デニス・ヴァシリエフスのメインコーチになりました。
おまけに、ステファン自身も定期的に氷上で出演しています。毎日、彼は自分のトレーニングのために少なくとも1時間は割り当てています。
- 後でリンクで演じる動きを練習する、アクティブなオフアイスでのトレーニングの枠の中で、心理的なことも含めて向上することはできます。
ランビエールは、才能あるスケーターは、激しい振りによってではなく、心で感情を伝え切るべきだという意見を持っています。この技術は彼に従っているように思えます。