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ヤグディン40歳 冬≪リョーシャは何でもできるのよ!≫

先月のヤグディン誕生日に出ていた記事です。

長いなーと思ってスルーしてましたが、心を入れ替えてがんばって訳すことにしました。

russian.rt.com


≪年齢を重ねるたびに、心の中は若返っている≫:ヤグディン、40歳、家族の価値、人生の哲学について

エレーナ・ヴァイツェホフスカヤ

アレクセイ・ヤグディンは、自分の40歳の誕生日に冷静に向き合い、彼の心の中は映画≪ベンジャミン・バトン 数奇な人生≫の筋書きに近いと打ち明けています。RTのインタビューで、彼は過去を振り返らず、今日を生きるようになったと言い、頑固なのにどうやって妻に譲歩することを覚えたのかを説明し、何もせずにどう生活したらいいのか当惑していると言いました。彼のコーチ、タチアナ・タラソワは、共に戦ったソルトレイクシティでの歴史的な勝利から18年経っても、アレクセイは何でもできるということを疑っていないという話をしました。

冬。≪リョーシャは何でもできるのよ!≫

2002年まで、ヤグディンはほとんど全てのインタビューで、オリンピックで勝ちたくないと言っていました…。しかし、結局はオリンピックで勝ち、その上、一度にいくつかのカテゴリーで男子シングルスケートの歴史に名を残しました。満場一致の決定でジャッジの支持を得たオリンピックチャンピオンは今までにいませんでしたし、2本の4回転を入れたプログラムで、フリーでは4つの最高得点を出してオリンピックに勝ったスケーターも、今まで一人もいませんでした。そして、おそらく、ある男子シングルのプログラムが、その後約20年間、フィギュアスケートの全歴史の中で、最も印象深い振り付けとしてファンの記憶に残っているというようなことはまだ起こっていません。しかし、ヤグディンの≪Winter≫にはまさにそれが起こりました。

ヤグディンの引退は、オリンピック後に起こった太ももの怪我によるものだと考えられていますが、実際にはこの怪我はオリンピックの4年も前から彼をとても悩ませていて、彼が2度目のチャンピオンになった1999年の世界選手権では、ほとんど足の感覚がなくなる強い麻酔注射を複数打っての勝利でした。そのため、2003年の終わりに、彼とコーチの両者にとって悲劇的な、競技生活を続けることは不可能だという判定を下した外科医が、ヤグディンを本当にラッキーな男だと呼んだのは、驚くことではありません。彼は、もし怪我の悪化が半年早かったら、アレクセイがオリンピックの金メダルを獲ることは、人生で一度もなかっただろうと説明しました。そして、2002年のオリンピックの翌シーズンには、彼はStars On Iceで滑り始めていて、プロでは2度世界チャンピオンになっています。

ところで、後にヤグディンは、オリンピックに対する自分の心理的拒否反応が何によるものだったのかを、正直に説明しました。彼はあるインタビューでこう言いました。≪オリンピックはチャンピオンになった時だけ良いものなんです。それ以外の場合は、恐ろしい試練に変わり、敗北はそれまでの人生全てを消してしまいます。2位や3位はやはり敗北ですから。≫

ヤグディンが1998年に移籍したタチアナ・タラソワですが、彼は、彼の性格や、彼がどんな時でも主張し、隠す必要があるとは全く考えなかった意見に耐える準備ができている、世界で唯一の人物を見つけたようです。2000年に3度目の世界チャンピオンになった後、彼は自分のことをこう言いました。≪私は十分に難しい性格で、怠け者で、トレーニングを強制される必要があります。議論が好きで、いつもではないですが、用件だけを話すのが好きです。私は聞き分けが良かったことなどありませんし、いつも自分の意見を持っていて、定期的に家出して反抗しようとさえしていました。≫

彼の性格の特徴がどれだけ想像を超えていたのかは、同じ2000年に全て明らかになりました。ヨーロッパ選手権の前に、練習でジャンプが上手くいかなかったため、ヤグディンは手を骨折するほどの力でリンクのフェンスを激しく殴りました。ヨーロッパ選手権にはギプスで出場しなければならなくなりましたが、その時、アレクセイは頭のスイッチを入れることを覚え、考えるようになったと告白しています。

彼はキャリア中、4度の世界チャンピオン、3度のヨーロッパチャンピオンになり、グランプリファイナルでは2度優勝しました。彼はどんな状況にあっても試合で戦うことが大好きでした。実際、かつてコーチのタラソワを惹きつけたのは、まさにこの性質でした。彼女は無条件に生徒を信じ、彼自身も同じようにコーチを信じていました。そして、タラソワとヤグディンの協力関係が、双方にとってのオリンピック金メダルのように、もう20年以上も揺るぎなく存在していることは、おそらく驚くことではありません。

タラソワの≪リョーシャは何でもできるのよ!≫という名フレーズは、彼にとってちょっとしたモットーになりました。

≪私はある時、本当に自分が望むこと全てを実現することができることに気が付いたんです。ただ働けばいい。仕事は私の信仰です。他のものは何も信じていません。そして、私が色々なプロジェクトに取り組むたびに、それが成功するのだとわかっています。幸運の男というニックネームまで付けられたのは偶然ではないでしょう。≫と、ヤグディンは微笑みました。

2007年に、最も難しい人工股関節置換手術をアメリカで受けた後、ヤグディンは度々現役復帰を試みました。彼は競技以外の人生を全く想像できなかったからです。復帰は叶いませんでしたが、このことが彼をサドルから振り落とすことはありませんでした。


これが≪冬≫なので、あと≪春≫→≪夏≫→≪秋≫とつづきます。

つづき → 春≪長年一緒にやってきて、彼は一度も私の期待を裏切ったことがない≫