ただのフィギュアスケートファンのロシア語翻訳

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ミーシン先生の本より、ソチ - 黒海のアイスバーグ2

のつづきです。


 この試合について話すなら、私たちの生徒、アルトゥール・ガチンスキーの素晴らしい演技を思い出さないわけにはいきません。小さな7歳のアルトゥールチカを、彼の母、スヴェトラーナが、私のところに連れて来ました。そして私たちは彼と簡単なアクセルから練習を始めました。そしてここで私は、私たちロシアの、そして世界のフィギュアスケートの練習で、コーチが選手を、シングルアクセルからヨーロッパ選手権や世界選手権の表彰台まで導くというケースは、それほど多くないということを付け加えたいと思います。

 このヨーロッパ選手権で、ガチンスキーは正にプルシェンコをリードして、ショートプログラムで1位になりました。そして、フリーの後、エフゲニーにわずかに負け、彼は銀メダリストになりました。

 今、アルトゥールの才能のレベルを評価するなら、神は彼に二つとない身体的な素質と芸術的な才能の珍しい組み合わせを授けたと言えます。おそらく当時、世界中のスケーターの中で、彼ほど見事にトリプルアクセルを跳ぶ人は一人もいませんでした。そして、彼が跳ぶことができた4回転ジャンプの種類は、今でもかなりすごいものです:トウループ、サルコウ、そしてループです。

ガチくんとプル

 そして、ジェーニャは程なく世界選手権への旅を辞退することになりました。半月板が耐えられませんでした。翌年、歴史は繰り返され、さらに悪化しました。彼はヨーロッパ選手権のショートプログラムをなんとか滑り切りましたが、フリーには出場しませんでした。その代わりに、イスラエルの病院へ手術を受けに行くことになりました。

 ロシアの男子シングルスケートには一定の空白ができました。プルシェンコには、自分自身の健康に関する困難が襲い掛かりました。アルトゥール・ガチンスキーは、当時、心理的に弱っていました。このことについては、十分に発揮されなかった才能についての章でお話ししました。かなり若いマキシム・コフトゥンは、その時、彼にかけられた期待の重さに対処することができませんでした。その困難から彼はとうとう解放されませんでした。このことについてはまた別途お話しします。


つづき → 

訳していないところのお話が出てきてますね。もしかしたらそのうち訳すかもしれませんが、この章がまだまだ続くのでずっと先かな…?