ただのフィギュアスケートファンのロシア語翻訳

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ミーシン先生の本より、ソチ - 黒海のアイスバーグ3

のつづきです。


 しかし、まず私は歴史に問いかけ、人の手によって自分の本当の実力以上のレベルに投げ出された他のアスリートとの類似点を見つけたいと思います。1960年のローマオリンピックで、私たちの代表団の幹部の前には問題が立ちはだかっていました:当時はまだ本名のカシアス・クレイを名乗っていたモハメド・アリと対戦するボクシングの試合に誰を出すのか?私たちのチームの最強のボクサーは、屈指のファイター、ゲンナジー・シャトコフでした。しかし、彼の階級はヘビー級のアリより軽い階級でした。

 決定は、共産党中央委員会で下されました。大丈夫、彼は軽いがテクニックがあるし意志が強いと言われていました。その通り、シャトコフは素晴らしいボクサーでした。しかし、彼はボクシングの天才、おまけに階級が上の相手と戦いました。何度かノックダウンがあったとはいえ、彼が自分の足で立って戦いを終えたことは、彼にとって大きな功績でしょう。

 レスガフト大学で一緒に仕事をしていた時、彼はスポーツ学部の副学部長でしたが、シャトコフは、あのアリとの戦いは高くついたと言っていました。受け損ねたパンチの後遺症はかなりのものでした。脳出血を引き起こし、その結果、彼は新たに話すことを学ばなければならなくなりました…。

 マキシム・コフトゥンにも同様のことが起こりました。私は、彼がロシア選手権で5位になった後に、彼をヨーロッパ選手権に派遣した決定が、彼のスポーツの運命に致命的な影響を与えたと思っています。人間活動のあらゆる分野の代表者に、その実力以上の期待をかけることほど有害なことはありません。マキシムのキャリアは、全く違った風に、論理的にジュニアからシニアへ発展する可能性があったのですから。それに、この決定はあらゆるアスリートにとって神聖な≪勝利≫という言葉の価値を下げました。確か、世界的に有名なアスリートたちでさえ異議を表明しました。私のコーチ人生の中で初めてであり、そして最後であって欲しいですが、私はアスリートたちが、コンスタンチン・メンショフのチームメイトのサポートのためにアクションを起こす様子の目撃者となりました。彼はロシア選手権の銅メダリストで、ヨーロッパ選手権に自国の代表として出場する機会を奪われました。アクションは、短いスローガンでできており、すぐにインターネット空間全体に広がり、伝わりました:≪コースチャをヨーロッパへ!≫ その発起人たちの中に、並外れた決断力を発揮したマキシム・トランコフとクセニヤ・ストルボワがいたことは興味深いことです。もし、異議を申し立て、アクションをやめさせようとした個人コーチたちの介入がなかったら、これが一体どういうことになったのかはわかりません。

コフトゥン


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