ただのフィギュアスケートファンのロシア語翻訳

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ドミトリエフ君のインタビュー、4A着氷時のことなど

4月4日に出ていた記事です。

名立たるスケーターたちの名前が出てきてさすがドミJr.!

matchtv.ru


≪4回転ジャンプはAK-47のようだ。ただ撃つことが重要。アルトゥール・ドミトリエフ、スポーツへの復帰と4回転争いについて≫

マリーナ・チェルニショワ-メリニク

 

数年前、アルトゥール・ドミトリエフは、技術的なブレークによって男子シングルスケートファンをひどく驚かせました。彼は実現不可能と思われていた≪トリプルルッツ-トリプルフリップ≫のコンビネーションを史上初めて跳びました。その後、宇宙へのジャンプ、4回転アクセルを攻略しようとしました。ケガと精神的な疲れから競技生活を中断しなければならなくなりました。アルトゥールはリセットし、戻って一から全てをやり直したいということを自覚するのに2年かかりました。≪Match TV≫は、彼のスポーツでの最も大きな望み、アメリカでの生活、ひどいケガ、男子シングルの進歩の秘密について聞きました。

 

≪ものすごい痛みを覚えている。ベッドの上でさえ血腫で悩まされた。ほぼ3年間どの医者も説明できなかった≫

 

- アルトゥール、現時点であなたの最後のスポーツシーズンは2018-19年ですね。このシーズンはあなたが技術的進歩への道を進んだ時期でしたね。まず≪トリプルルッツ - トリプルフリップ≫のコンビネーションに成功し、グランプリシリーズで4回転アクセルに挑戦しました。その後、あなたはいなくなりました。今、戻ることにした動機はなんですか?

- はい、本当に長い間休みました。ウルトラCの要素の練習過程で負ったケガを治療していました。回復し、スポーツに戻ることにしました。(肉体的にも、精神的にも)ちゃんとしたコンディションに戻して、世界の舞台で自分を見せたいです。

- まだ挑戦しなければと思っていますか?

- どちらかと言うと、説明するのが難しい内なる願いです。現役生活で僕はまだ実現していないし、できること全てを見せていないという言い尽くせない気持ちです。もちろん引退して諦めることはできます。しかし、自分のために決めました。もし年齢が許す限り挑戦しなかったら、後でとても後悔するだろうと。

- 長い休養の後リンクに出た時、個人的なスポーツにおける野望と共に何を感じましたか?

- おそらく、自由です。僕はここ数年コーチをし、自分の知識を子供たちに伝え、彼らを助けようと頑張ってきましたから。ここでは完全に自分の行動をコントロールできますし、全て自分次第です。これは心の飛行です。

- コーチはどなたで試合にはいつ出場されるんですか?

- 近年は父(ペアのコーチ、アルトゥール・ドミトリエフ - ≪Match TV≫)がとても助けてくれていて、今はメインコーチは決まっていません。僕はニーナ・モーゼルの学校で練習しています。最近までドミトリー・サヴィンと一緒でした。来月には指導者やスケジュールを全て決めるつもりです。来シーズンはきっとB級の国際大会に出場すると思います。ポイントを稼がなくては。パンデミックでどの大会も中止にならないことが最も大事です。

- ご親族は復帰することにどのようなご反応でしたか?やはり、トレーニングに完全に没頭しなければならなくなりますよね。

- 理解してくれています。妻も両親も僕を支えてくれ、成功を信じてくれています。妻は練習に来て動画を撮ってくれ、一緒にジャンプの分析をしています。

- あなたの経歴の最初に戻りましょう。あなたは成功したアスリートの家族(父親は2度のオリンピックチャンピオン、アルトゥール・ドミトリエフ、母親は新体操の世界チャンピオン、タチアナ・ドルチニナ - ≪Match TV≫)に生まれたんですから。フィギュアスケートは単純明快に宿命だったのですか?

- 子供の頃は色々な種類の職業を検討していました。例えば、レーシングドライバーになることを夢見たり。でも、どういうわけかこうなりました。6歳の時に父がトレーニングしていた≪ユビレイニー≫スポーツクラブでスケート靴を履かされ、全てが始まりました。僕はたくさんジャンプをするのが好きだったし、2000年代のスター選手たちの大ファンだったので、シングルを選びました。プルシェンコとヤグディン、それからジュベールとランビエール。僕の家族とモスクヴィン一家と彼らの生徒たちがアメリカに行った時、僕はそこで イーゴリ・ボリソヴィチ・モスクヴィンの指導のもとで真剣に練習を始めました。

- あなたがアメリカに住んでいた時、あなたのご両親は多くの有名なスケーターたちをご指導なさっていましたね。当時の彼らとの交流で何か鮮明な思い出はありますか?

- あの頃はとても面白かったですよ。素晴らしい仲間たちが集まっていました。オリンピックチャンピオンのヴィクトール・ペトレンコやイリヤ・クーリック、オリンピック銀メダリストのエレーナ・ベレズナヤとアントン・シハルリドゼ。僕たちは家族ぐるみの付き合いで、祝日は一緒にお祝いしていました。今はフィギュアスケートのエリート全てが一か所に集まることなんてありません。ところで、僕はサラ・ヒューズと同じリンクでトレーニングしていたんですよ。僕たちはタチアナ・ナフカとアレクサンドル・ズーリンの近所に住んでいました。彼らの所に僕はいつでも遊びに行くことができました。彼らの所には美味しいイタリアの炭酸水があって、よくもらっていたのを覚えています(笑)。僕たちの関係は親戚みたいなものでした。僕の両親が別れた時、父はロシアに戻り、アレクサンドルが僕の面倒を見てくれました。トレーニングの送り迎えをしてくれたり、リンクで見守ってくれたり、たくさんの生活のアドバイスをもらいました。彼は当時僕の父親代わりでした。

- ズーリンはあなたのコーチだった時期がありますね。彼はアイスダンスが専門ですし、スケーティングを教えてもらったんですか?

- 僕の年齢やレベルを考えると、彼は僕にとても多くのことを与えてくれました。スケーティングも良い基礎もインスピレーションも。ところで、ズーリンには他のシングルスケーターとの仕事の経験もありますよ。ロシアチャンピオンのアレクサンドル・アブトや世界選手権銀メダリストの村主章枝です。

 

≪リンクには40人ぐらいの人がおり、近くで女の子が出ようとしていた時にジャンプで転んだ。その子のブレードが鼻に当たった≫

 

- 多くの治療や手術を受けなくてはならなくなった鼻のケガはいつどのように負ったのですか?

- これは一般開放のリンクで負いました。アメリカでは個人用のリンクが使えないので。国が所有しているリンクはアメリカにはありません。リンクには40人くらいの人がいて、近くで女の子が出ようとしていた時に、僕は≪運良く≫ジャンプで転んでしまいました。その子のブレードが鼻に当たり、血がどっと流れました。でもこのケガは僕の人生で一番ひどいケガではありません。もっとひどいのは2012年の春でした。その時僕はニコライ・モロゾフとソチオリンピックに向けて練習していました。僕はどうしても代表になりたくて、1日に8~9時間、気が狂ったように練習していました。その結果、熱心にやり過ぎて、簡単な要素、ダブルアクセルでケガをしてしまいました。僕はジャンプを回り切れず、足を折りました。その上靭帯損傷まで。それは、身体がより疲れていた夜に起こりました。その結果、僕は長い間試合から離れました。骨折は治りましたが、反動がもう片方の足に起こりました。膝が≪飛び出し≫ました。特に僕がウルトラCの要素を取り戻そうとした時のものすごい痛みを覚えています。ベッドの上でさえ血腫で悩まされました。ほぼ3年間どの医者も説明できませんでした。それから、僕はサンクトペテルブルクのスポーツドクター、セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ベルキンを探し出しました。彼はMRIで診断し、膝を≪切って≫くれる大学病院に送ってくれ、全てがうまくいきました。この素晴らしい医者がいなかったら僕はずっと前に引退していたでしょう。全体的に、このケガは悲しいです。ニコライと一緒に僕たちは多くのことを実現する計画をしていましたから。どのコーチも多くの良い事を与えてくれましたが、技術の基礎はアレクセイ・ニコラエヴィチ・ミーシンとヴィクトル・ニコラエヴィチ・クドリャフツェフが教えてくれました。みなさんに感謝しています。

- あなたがミーシンのもとでトレーニングしていた時、同じリンクでエフゲニー・プルシェンコが3度目のオリンピックに向けて準備をしていましたね。彼は先輩として助けてくれましたか?

- はい。彼は何度かアドバイスをくれました。基本的に僕たち二人はお互いに刺激し合うようにしていました。エフゲニーは僕に対して偉大な選手として、僕は彼を追う若い選手として。シーズンの終わりには≪敢えて≫跳んでさえいたのを覚えています。

- あなたはリーザ・トゥクタミシェワとも同じグループで長い間練習されていましたね。彼女がトップに上り始めた頃どんな様子に見えましたか?

- リーザはしっかりと目的を持って練習していました。彼女はファイターです!当時彼女は試合に出たがってばかりいて、たくさん準備していました。プロセスに入ったとき、コンディションのピークを向かえ、勝っていました。世界選手権優勝後のシーズン、リーザがその地位を維持するのが難しくなり、低迷したのは残念です。しかし、彼女は自分に打ち勝ち戻ることができ、トリプルアクセルを取り戻しました。これは価値あることです。初めて勝つよりもはるかに難しい。僕はプルシェンコが3年間ショー三昧だった後に復帰したのを見て、明確にこう言う事ができます。リーザが今やっていることは、尊敬に値すると。

- 現時点で、あなたにとって最も価値がある試合はどの試合でしょうか?

- カザフスタンで行われた2017年のユニバーシアードです。とても暖かい歓迎で、心の中ではオリンピックみたいな気持ちでした。僕の名前と苗字がコールされ、会場のみなさんが拍手を始めてくれたのを覚えています。すごい振動とエネルギーでした!全体的にあの時は僕にとって難しいシーズンでした。僕は背中の治療のために休養し、その後4回転ジャンプを取り戻し、全て順調でした。カナダチャンピオンのエマニュエル・サンデュが素晴らしいショートプログラムを振付けてくれ、アレクセイ・ミーシンはフリーの振り付けに相当な貢献をしてくれ、僕はクリーンに滑っていました。しかし、僕たちは当時試合に出場し過ぎてしまいました。少しの間隔で試合があり、その上僕はプルシェンコのショーに出て、そこでクワドを入れたプログラムを滑りました。その結果、荒れてしまい、僕はアレクセイ・ニコラエヴィチに休ませてくれるよう頼みました。

 

≪プルシェンコは多くの人に批判されている。理由がわからない≫

 

- あなたは4回転アクセルを跳んでいました。この要素を手に入れようとしたきっかけは何ですか?

- 17歳の時、初めての世界ジュニアの後、僕はテンションが上がっていました。僕は4回転トウループ、サルコウ、ループ、ルッツを跳ぶようになっていました。自分に打ち勝ちたかった。自分が全ての4回転ジャンプを跳べることを証明したかった。純粋に自分のために心の中でこの記録を切望しています。ミーシンの指導のもと、試し始め、並行して僕たちは3本のトリプルアクセルのシークエンスを練習していました。僕はすぐに跳びました。着氷後、ちょっと跳んだり足変えしたりすることなく。観客のみなさんの前で初めて4回転アクセルを見せたのはプルシェンコのショーでした。なぜか案外全てが自然と上手くいきました。僕がプログラムを滑り終えると、イリーナ・スルツカヤがマイクを取り、僕の十八番の要素を見せることを提案しました。僕はちょっとショックでしたが燃えました。アクセルは回転不足でしたが、やはり着氷できたことは嬉しかった。その後、アレクセイ・ニコラエヴィチと僕はこの考えを捨て、僕はこの試みを父と再開しました。しかし、僕たちはアクセルを理想形まで持っていけませんでした。健康問題が邪魔をしました。僕は未だに心の中で、全ての力を注げばこの要素は実現できるとわかっています。

 
 
 
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- そういうパワフルなジャンプを跳ぶのにテクノロジーは助けになるでしょうか?たとえば、空気力学の進歩や、スケート靴の構造の変化のような。

- 自分の経験に基づけば、良いコンディションと筋肉の強度の余裕が大事だと言えます。まさに準備ができた筋肉です。正しく適切なアプローチが大事で、機関車の前を走ってはだめ!ケガを誘発するだけです。現代のテクノロジーのおかげで、素晴らしい画質でトレーニングの動画を撮ることができるのは良い事です。タマラ・ニコラエヴナ・モスクビナが最初にやり始めたのを覚えています。彼女は自分の生徒たちの要素をカメラで撮影し、それからみんなで見て分析しました。そして、今は全てのターンを大画面でコマ送りで検証することができます。これはとても助かります。

- 私の知る限り、エフゲニー・プルシェンコもあなたの4回転アクセルの練習を助けていましたね。スポーツでの彼の莫大な経験と要素の深い理解を考えると、エフゲニーは良いコーチになると思われますか?

- はい。エフゲニーは僕に多くのアドバイスをくれ、励ましてくれました。そして生徒の立場から、僕は彼には大きな可能性があると言う事ができます。今日、こんな経歴と成果を持つシングルスケーターを見つけることができるでしょうか。プルシェンコが多くの人から批判されているのは知っています。正直言って理由がわかりません。彼を支持したいです。素晴らしい経験と強力な仲間の存在は、実を結ぶと思います。すぐにではなくても、これから数年後には結果を見ることになるでしょう。時間と忍耐が必要です。エフゲニーのチームは正しい道を進んでいると思います。彼らの全てが上手くいくことを願っています。

- ウルトラCのジャンプを跳ぶ時は何について考えているのですか?人生が走馬灯のように過ぎるんでしょうか?それとも着氷できるかどうかだけですか?

- 全く余計なことを考えないようにしています。これはカラシニコフの自動小銃みたいなものです。ただ撃つことが重要です。全てが、全てのクロス、全てのステップが、息を吸って吐くことに至るまで、徹底的でなければなりません。それができれば、試合で自動小銃レベルで全て行えます。

- 男子シングルスケートの歴史の中で、何かあなたにとって特別な要素を選び出すことはできますか?ヤグディンやカート・ブラウニングのステップのような。

- ヤグディンのステップはもちろんです。とても美しく、毎回思い出したいです。あれは難しさだけではなく、視覚的作品、観客へのアクセント、印象深さの基準になり得るまさにお手本です。僕は今シーズンの羽生結弦のプログラムで要素間にあるたくさんの興味深い変化を例に挙げたいです。彼がスポーツで歩む道も、絶え間ない斬新さも評価しています。全てがとても充実し、同時に簡単に見えます!そして、ネイサン・チェンの今シーズンのフリープログラムが好きです。内容豊かで芸術的なところが。

- 過去のヤグディン、プルシェンコ時代の人気を取り戻すために、あなたの状態をどう発展させるのですか?

- 構成点にもっと注意を向ける必要があると思います。動きのなめらかさ、プロフェッショナリズム、そしてダンスのアクセントに。新採点システムでは、ジャッジはまさに演技の技術と要素の質を評価しています。今は、それを見せることができる経験豊かなシングルスケーターたちの時代です。ですから、歴史と共にそういう選手たちを増やすことが大事です。普通、22~23歳の若い年齢で辞めてしまうのですから。プルシェンコとヴォロノフは正確に言うと例外ですが。

- スポーツでのあなたの目標は何ですか?長く滑る予定ですか?

- 僕は時間制限はしません。全て健康次第です。そして、熱意はとてもあります。シーズンの主要大会に出たいですが、まずは、技術的な面から現実化したいです。4回転アクセルをジャッジに認められるように跳びたいです。

- 隔離期間、あなたはオンライントレーニングをされていましたね。こういう形式だとスケーターたちに何を教えることができましたか?

- 僕の生徒には、2回転ジャンプをやっているレベルの子たちから3回転ジャンプを跳ぶレベルの子たちまでがいました。多くの子が基礎を改善し、自分のジャンプの回転数を増やしました。僕はそれを誇りに思っています。全体的に、全てのリンクが閉鎖された状況では、オンライン形式は多くの選手にとって救いでした。彼らはリンク外にいる形式で、世界中のどこにいても(スマホの画面を通して)経験を積むことができました。僕たちは今も時々そういうレッスンをしています。自分の経験を地方の若い子たちに伝えたいです。地方にも多くの才能ある子がいますから。

- あなたが夢中になっているカーレースのことを話してください。

- 僕は古いクラス、出力制限なしの車が参加する80~90年代のラリークラス≪B≫が好きです。その頃の録画をよく見ていて、レーサーがカーブを走っている雰囲気を楽しんでいます。何人かの参加者が事故を起こし、危険すぎるのでこのラリーは禁止されました。最近のレースは見ていませんが、ケン・ブロック(有名なアメリカのレーサーでショーマン - ≪Match TV≫)のアマチュア動画を見ました。カーレースはお金がかかるスポーツです。今は僕にはやる余裕がありませんが、フィギュアスケートを完全に引退した後は、何が起こるか誰もわかりません。


詳しくないんですが、AK-47というのは

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/AK-47_assault_rifle.jpg/450px-AK-47_assault_rifle.jpg

↑こんなやつみたいですね。"K"はカラシニコフの"K"。

 

ドミトリエフ君、ずーーっと4Aやってるから引退までには成功するといいな~😊

着氷はできても回転不足じゃないところまで持っていくのが大変そうですね。