≪僕はフィギュアスケートなしでは生きられない。≫ スケーター、アンドレイ・モザリョフのインタビュー
自分にとって失敗に終わったオリンピック、ワリエワのドーピング、ロシア選手たちにとってとても難しい時について、サンクトペテルブルクのスケーター、アンドレイ・モザリョフは≪Fontanka≫のスポーツ部門のインタビューで話した。
2022年3月14日
北京オリンピックは、サンクトペテルブルクのスケーター、アンドレイ・モザリョフにとって初めてのオリンピックになりました。デビューは、29人中19位で議論の余地があるものになりました。18歳の選手にとって、これは人生で初めてのオリンピックですが、外交情況を考えるとまだチャンスはあるのでしょうか?アンドレイは自分でもわかっているようです。
- あなたにとってこれは初めてのオリンピックでしたね。どんな印象でしたか?
- 新しい感情、新しい印象でした。個人的にこのお祭りは楽しかったです。でも、もっと経験がある仲間たちは、この全ての制限のせいで、これは本当のオリンピックらしくないと言っています。わかりませんけど。どこにも出かけられず、どこでもマスクをつけ、毎日コロナウイルスの検査を受けなければならなかったこと以外、僕は全てとても気に入りました。
- ジャーナリストたちはそれでも期間中のある日、北京観光に連れ出されました。あなたはそういうことはなかったのですか?
- ありませんでした。オリンピック期間中ずっと選手村で過ごしました。行けても行かなかったと思います。感染リスクが高過ぎます。
- 検査に関して辛いという話を聞いています。検査に使う綿棒がとても奥深くに乱暴に突っ込まれ、血が出た人もいたとか。
- 選手村では口からの検査で、まだなんとか我慢できました。でも、着いたとき空港でされた検査は、ほぼあなたがご説明された通りでした。綿棒がほとんど脳まで突っ込まれました。
- クラスノヤルスクでの最終合宿では、スケーターたちは、部屋、リンク、食堂の間をほとんど列になって歩いていたと聞きました。
- まっすぐ列になったりはしませんでしたが、もちろん僕たちはどこへも出られませんでした。自分用の食堂や廊下やエレベーターがありました。
- 何の気分転換もできない制限された状況は大変ですか?
- 大変だった人もいたかもしれませんが、僕にとってこれはいつもの日課です。サンクトペテルブルクで、僕はほぼ同じように過ごしています。練習、家、練習、家。それが毎日です。疲れているのでどこかへ出かけることはほとんどありません。家に帰るだけの力しか残っていません。帰ったらすぐに横になって休みます。
- オリンピック中の生活はどんなものでしたか?
- 僕たちは3人部屋で過ごしていました。僕とジェーニャ・セメネンコとマルク・コンドラチュクで。
- ライバル同士が同じ部屋に入れられたのですか?そこで眉をひそめてお互いを見ながら過ごしていたのですか?
- いいえ。ライバルなのはリンクの上だけです。普段僕たちは友達です。一緒で楽しかったくらいです。いつもは二人部屋ですが、今回は一度に3人だったので。
- ロシアのバイアスロン選手たちは、オリンピックの選手村で配られたコンドームをコーラでいっぱいにして、そこに≪メントス≫を投げ入れて遊んでいましたよ。(なんて遊びを💦)
- 僕たちはそんなに大変じゃなかったですよ。隣のテリトリーに散歩に行きました。そこには、ビリヤード、卓球、エアホッケー、テーブルサッカーができるゲームコーナーがありました。それと、部屋でトランプをして遊びました。僕たちはバイアスロン選手たちほど退屈してなかったみたいです。
- オリンピックのコンドームなんかはお土産として持って帰りました?
- いいえ。
- ビンドゥンドゥンは?
- 持って帰りました。2つも。
- 欲しい人がたくさんいたと言われていますね。
- はい。ある時間にお店にまとまった量が届けられていました。30分前に行ってきちんと列に並ばなければなりませんでした。僕は2つ買いましたが、5、6個買った人もいます。
- 男子シングルの試合が始まるまでどれくらい時間がありましたか?
- 僕たちはショートプログラムの8日前に到着しました。1日1回30分の練習がありました。もちろん、少し足りません。でもみんな同じ条件でした。
- ショートプログラムの前は緊張しましたか?
- 少し緊張しましたが、いつもの試合のように合わせました。これは試合というよりむしろお祭りです。だからワクワクしていました。ここにいることが、どれ程クールなことかを実感していました。
- オリンピックシーズンのプログラム作成には何か特別なアプローチがありましたか?
- ほとんど全部いつも通りでした。まず、つなぎを作りました。それから全部を組み合わせました。もちろん、難しいこともいくつかありましたが、些細なことです。
- あなたはフリープログラムでクリストファー・コロンブスの明るいイメージを表現されました。アイデアはどうやって生まれたのですか?
- キリル・アナトリエヴィチ(ダヴィデンコ、モザリョフのコーチ。 - 編集者)は長い間このアイデアを暖めていましたが、やっと今シーズンやることになりました。
- 衣装を決定するまでのプロセスはどんなものでしたか?
- それも全部スタンダードでした。まず、僕たちは曲を送り、自分たちのアイデアを伝えました。それから、僕たちのところにデッサンが送られてきました。少し仕上げをして確定し、それからもう製作に取り掛かります。約3週間で全て終わりました。もう少し長いかも。
- ご自分の演技結果をどう評価されますか?
- 悪かったと思います。ショートプログラムで転倒し、トリプルアクセルではなくシングルアクセルになりました。フリーでは2回も転倒しました。でも、僕たちは既に明確な結論を出し、さらに練習しています。
- でも、あなたは緊張しなかったし、オリンピックはあなたにとってお祭りだったとお話されていましたよね。それなら何が起こったのですか?
- 到着後、なぜか肉体面での準備が大変でした。演技をする前には既に何かがおかしいとわかっていました。
- 練習時間が足りなかったからかもしれないですね?
- そうかもしれないです。正直に言うと、このことについては話したくないです。
- とてもがっかりしているんですか?
- もちろん、自分ができることを100%見せられなかったことにがっかりしています。でも、これは僕にとって初めてのオリンピックで、僕はまだ18です。(誕生日の前のインタビューなので!)きっと、これからまだたくさん時間があると考えるのはあまり正しくないでしょう。でも、何れにしても、これが僕にとって最後のオリンピックではないことを願っています。少なくとも良い経験でした。
- 19位という順位は自己評価に大きく影響しましたか?
- 今は既にそのことは忘れました。オリンピックは終わり、僕はさらに練習しています。
- コーチはフリーの後、何かおっしゃいましたか?
- 大したことじゃない、何れにしてもとても大きくてクールな経験だよと言っていました。一体となって進みます。勝利と敗北を一緒に体験します。
- 他のスケーターたちの演技はご覧になりましたか?
- フリーだけ。最初からチェンの勝利に賭けていました。
- なぜ羽生ではないのですか?
- わかりません。なんとなくチェンの方を信じていました。それに、羽生は既に2連覇していますし。
- 羽生はまだ誰もやっていない4回転アクセルを跳ぼうとしました。残念ながら上手くいきませんでした。これは点数だけではなく健康にも大変なリスクでした。
- きっと彼は最終的にフィギュアスケートの歴史に自分の痕跡を残したかったのでしょう。
- 練習で4回転アクセルを跳んでみたことはありますか?
- いいえ。でもしばらくしたらやってみようと思っています。
- 女子はご覧になる時間がなかったのですか?
- ありませんでした。僕たちは2月12日には既に出国していました。つまり、フリーの2日後です。陽性反応でさらに10日間滞在期間が延びる人も多いので、残らない方が良いと言われました。
- もう一つ北京オリンピックでホラーだったのは食事でしたね。少なくて美味しくありませんでした。
- 選手村にはたくさんの種類の食べ物がありましたが、ヨーロッパ風のものでも味は…独特でした。
- 国旗と国歌がないことによる緊張感はありましたか?
- 個人的には感じませんでした。そのままでも僕たちがロシア出身なのをみんなわかっていたような気がします。
- ワリエワの状況はなんとなく心理的に影響がありましたか?
- どう言えばいいのかな。もちろん、僕はカミーラのことでがっかりしました。男子選手たちで彼女をできるだけサポートしました。傍からは、彼女はこの話のせいで打ちのめされてはいないように見えました。心の中で何を考えていたのかは誰にもわかりません。
- オリンピックから帰った後、あなたが個人的に変わったことは何でしょうか?
- 正直にですか?僕はまだオリンピックに出場したことが信じられません。僕にとってはいつも夢みたいなことでした。僕はかけがえのない経験をし、今からはさらに準備していきます。
- 4年後、オリンピックでお目にかかれるでしょうか?
- 時が経てばわかりますよ。今、何かを予測するのは難しいです。
- きっと今はもう、ただオリンピックに出場するということ以外の目標があるのではないですか?
- トップ3に入りたいです。
- フィギュアスケートを始めたきっかけは何ですか?
- 最初は姉が滑っていました。母が姉を練習に連れて行っていましたが、僕を一人で家に残すわけにはいかず、連れて行くことになりました。そして、なんとなくこう言いました。≪僕はいつになったら滑るの?≫ 母は当時、僕に体操を習わせるか、姉と同じフィギュアスケートにするか、まだ考えていました。結果的にフィギュアスケートを選びました。スケート靴を履いたのは2歳くらいで、グループに入ったのは5歳です。
- 一度も辞めたくなったことはないのですか?
- ないです。8歳の時に、母にまだ続けたいか聞かれました。うん、やりたいと答えました。そしてその時、キリル・アナトリエヴィチの所へ移りました。
- 良い時期、悪い時期がありましたか?
- 正直に言うと、自分が抜け出せるとは全く思っていませんでした。なぜなら、僕はジューク・メモリアルで、最初は17位、その後11位でしたから。要するに、トップ10には程遠かった。最後に出場したときにやっと7位に入りました。それから、選手権にも出場しようとしました。ロシアカップシリーズに行きました。長い間何も上手くいきませんでした。
- それから何が起こったのですか?
- 話すのは難しいです。ただある時スイッチが入りました。代表チームに入ることができ、ジュニアグランプリに行きました。14~15歳くらいでした。そして、初めてグランプリシリーズで勝ちました。僕にとって全く予期していなかったことでした。ファイナルに出場するためには文字通り2点足りませんでした。その代わり、次のシーズン、僕は2つの大会で勝ちました。そして、その時から全部上昇していきました。
- それまで続ける意味があるのかどうかを疑うことはなかったのですか?
- 色々な考えが渦巻いていました。時々とても大変でしたが、それでも僕は信じていました。
- なぜ、予備の計画として他の職業を選ばず、コーチの勉強をすることにしたのですか?
- 僕はフィギュアスケートなしでは生きられないと感じています。スケートに自分の人生を捧げたいんです。僕には今後コーチになるための素質があると思います。既に時々小さい子供たちと練習しています。
- 直近の計画はどんなものですか?
- 今は何か計画を立てるのが難しい時です。特に試合に関しては。ただ練習を続ける必要があります。
- ロシアの選手たちがあらゆる所から排除されているというニュースをどのような気持ちでご覧になっていますか?
- 嫌だというのが全てですが、良くなると信じたいです。
アルチョム・クジミン、≪Fontanka.ru≫
モザリョフ君もチャンネル1カップでは素晴らしい演技でしたね!
オリンピックは力が出せなくて残念だっただろうな。