ただのフィギュアスケートファンのロシア語翻訳

フィギュアスケート関連のロシア語記事や動画の翻訳が中心のブログです。

アルトゥール・ガチンスキーの歴史1

sport24.ru


≪タラソワに逆らうよりもすぐに銃殺されたほうが良い。≫アルトゥール・ガチンスキーの歴史

彼はもう少しでプルシェンコのユーロの金メダルを奪えるところでした。ヤグディンのようにミーシンから去りタラソワのもとへ行きましたが、結局オリンピックには行けませんでした。

 

ヨーロッパフィギュアスケート選手権がオーストリアのグラーツで始まりました。試合で主に意外なことは、ロシア人男子たちに金と銀を完全に期待することができることです。優勝候補にはドミトリー・アリエフとアレクサンドル・サマリンがいます。

こういったことが最後にあったのは2012年でした。その時、表彰台に立ったのはエフゲニー・プルシェンコとアルトゥール・ガチンスキーでした。ショートプログラムの後、ガチンスキーはプルシェンコを上回り、専門家たちはミーシンが自分の主要な生徒の代わりを準備していることについて真剣に議論していました。しかし、2014年のソチオリンピック直前に、アルトゥールはモスクワのタチアナ・タラソワのもとへ移籍し、多くの人たちにとって予想外なことでしたが、1年半後引退しました。

なぜ彼はミーシンの代わりにタラソワを選んだのか、どのようにスター病を体験していたのか、何のために≪ユビレイニー≫に戻ったのか、そして女子選手たちにとっての4回転ジャンプは何が危険なのかについて知るために、Sport24はガチンスキーと会いました。

 

- あなたはよくプルシェンコと比べられていました。しかし、ある時あなたはヤグディンのようにアレクセイ・ミーシンから離れ、タチアナ・タラソワのもとへ行きました。同じようにコーチの配慮が激しく足りなかったんですか?

- いいえ、僕の状況がプルシェンコとヤグディンの間にあった状況と似ているとは言えません。アレクセイ・ニコラエヴィチと僕には個人的な口論は一切ありませんでした。ある時、僕はただ何か新しいことを試したいと考え始めました。そしてその後、ロシア選手権で大失敗しました。完全に感情は荒廃していました。その時僕にはモスクワに移り環境を変えることがこの状況を抜け出す唯一の方法のように思えました。今はわかっています。まず、自分自身を変える必要がありました。しかし、これは僕が何かを後悔しているという意味ではありません。僕はとても貴重な経験をさせてもらいました。

- そして、プルシェンコとミーシンがこのオリンピックのためにどんなことでもするということが決定的に明らかになった2014年のソチオリンピック直前にあなたがサンクトペテルブルグから去ったことも単なる偶然ですか?

- このことに関して特に話すことは何もありません。多くの人がこう考えていることはわかっています。アレクセイ・ニコラエヴィチはまたもやジェーニャを選び、彼との仕事に完全に集中していたと。違います。そうではありません。

今はもう、コーチとして働いていて、選手たちにはいつも嫉妬があり、いつもコーチの注意を引くための戦いがあるということを理解しています。これは全く正常なことです。しかし、グループの現実の環境には何の関係もないことが多いです。全ては選手自身の頭の中にあります。選手たちは、いつも自分に一番注意を向けられたいと考えているだけです。

- あなたのキャリアで最も不可解な年は2012年です。ヨーロッパ選手権であなたはプルシェンコとほとんど対等に戦いましたが世界選手権では突然18位になりました。試合の間はわずか3カ月です。何が起こったんですか?

- 自分のことをとてもクールなアスリートだと思いました。それに難しい年齢でした。少年が成長し、本当の自分を見せたいと思い、多くの口論や議論をし始めました。アレクセイ・ニコラエヴィチと多くの全く必要のない喧嘩をしました。喧嘩の後毎回僕たちはある種の行き止まりに入り込んでいました。抜け出そうとしている間に他の選手たちは落ち着いて練習を続け、僕に追いつき、追い越しました。他の説明は今僕にはありません。

振り返ってみると、どれだけ小さく愚かだったか、もちろんわかっています。しかし、僕が経験した全ての間違いと失敗が、今の僕という人間を作り上げました。これは僕の形成に不可欠な部分です。そして僕は何も変えるつもりはなかったでしょう。

- あなたが恥ずかしいと思う行動はありますか?当時、多くの様々なことが書かれました。スター病について、コンパについて、アルコールの問題まで。

- はい、色々書かれました。明らかに大変だったことは否定しませんが、報道では全てのことがかなり誇張されていました。それに、18歳で遊んだりクラブに行ったりしたくない人がいますか?普通の人間の願望です。

良く考えて休んでリラックスすれば、トレーニングの時に全く苦労することはありません。その時僕にはこの良く考えることが足りなかったということは別の問題です。トレーニングに行き、力をセーブして練習していました。寝坊してウォーミングアップをさぼることもありました。一度ならこれは全く結果に影響を与えないでしょうし二度でも同じですが、その後、わずか数か月で数年かけて仕上げたものを全てを失うことになります。

- アレクセイ・ニコラエヴィチは話をしようとしてくれましたか?

- はい。しかし、この年齢の人間に聞こえるまでノックすることはとても難しいことです。僕はとても強く自分がもう大人だということを見せたかったんです。

- アレクセイ・ニコラエヴィチからの3大教訓は?

- 僕たちのトレーニングは常にポジティブに行われていました。これが第一です。アレクセイ・ニコラエヴィチは親切で誠実で冗談好きです。彼の側では笑顔で全てを簡単にできるはずです。それから彼は素晴らしく話が上手です。そしてとても巧みに人生の物語をトレーニングプロセスに組み込むことができます。だからよりわかりやすくなります。彼はとても賢く聡明です。理由なく彼が教授と呼ばれているわけではありません。

そしてもちろん、技術とジャンプ訓練において、もはやこんな専門家は一人もいないと思います。アレクセイ・ニコラエヴィチと彼の妻、タチアナ・ニコラエヴナはこのことに多くの時間を割いています。主な課題は最も難しいジャンプでさえ選手にとって最大限安全であるようにすることです。ミーシンのグループでは誰も偶然に跳ぶことはありません。明確なシステムがあります。このシステムを学習する過程で、選手たちはどう腕を動かすか、どう正確な姿勢を取るか、細かいニュアンスを理解し始めます。これはとても大事なことです。なぜなら後になって間違いを避けるのに役立つからです。時には実際に命にかかわる程危険なこともあるからです。アスリートが自分がやっていることを理解し、運動力学を知っていると、自分の身体をコントロールするのはずっと簡単です。


つづき →