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≪何処にでも行きたい、全てを知りたい≫ デニス・テンがいない2年間

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≪何処にでも行きたい、全てを知りたい≫ デニス・テンがいない2年間

アナスタシア・パーニナ

 

スケーターの命日に、≪Match TV≫は、彼がいなくて寂しいことをいつも感じるために、彼がどんな人だったのかを思い出します。

最も恐ろしいことは、悪い予感についての私たち全ての考えをきれいさっぱり破壊し、たいてい極めてありふれた日々に起こります。車に乗らない可能性、別の飛行機に乗る可能性、そして最後の瞬間にスケジュールを変更する可能性。

2018年7月19日もそういったありふれた日でした。夏の中頃、とても沢山の計画、そしてこの先の人生全て。25歳のデニス・テンは、目標を夢中になって追うこと以外の他の方法を知りませんでした。地平線にスポーツの将来の展望がはっきり見えなかった時でさえ、彼には毎日取り組むことがありました。

彼は2018年の平昌オリンピックの後、引退しませんでした。ただ休養しただけです。体は回復のための時間を必要としていました。深刻な怪我と、オリンピック前の途方もない重荷のため、休養が必要でした。その上、全てのことに才能があるならどうします?どうやって何か新しいことを試す機会に抗いますか?

- 僕は何処にでも行きたいし、全てを知りたい。僕はこれらの物にとても飢えています。そしてまさにそうすることで、僕は人生から喜びをもらっています。(彼の追悼ショーの時に上映されたテンのビデオインタビューからの引用)

デニスはとどまる事なく挑戦していました。彼は写真に夢中になりました。複雑な光と高いコントラストを選び、街と友達を撮りました。彼の25歳の誕生日に、アスタナの最も高いホテルが彼の写真展を催しました。

彼は詩と音楽を書き始め、いくつかの歌を録音しました。これも素晴らしいものになりました。

彼はロシアのスケーター、セルゲイ・ヴォロノフの2018/2019シーズンのフリープログラムの振り付けをしました。そして、そのプログラムでグランプリシリーズの2つのメダルを獲得するところを見ることはもうできませんでした。

デニスは、耳が聞こえない娘と目の見えない青年の感情の物語を筋とする映画≪盲目の愛≫の脚本を書きました。取り返しのつかない事態が発生する1週間前、彼の脚本は、ティムール・ベクマンベトフの会社、≪バゼレフス≫が主催したコンテストの準決勝進出作品の1つに入っていました。

最後に、デニスはフィギュアスケートをとても愛していました。10歳まで、彼はアルマ・アタのオープンリンクとフードコートとお店の間にあるデパートでトレーニングしていました。10歳まで、彼は高価なプロスケート靴を持っていませんでした。父親が、プラスチックボトルを半分に切り、より丈夫で長持ちするように靴の胴にはめ込んでいました。これがジャンプの練習ができる唯一の方法でした。オリンピックメダリストとして、アルマトイでの2022年のオリンピック開催のエントリーに取り組むチームの一員になる時、何年も経ってから、この話をテンは世間に語ります。そのオリンピックには中国が選ばれ、カザフスタンは選ばれませんでしたが、デニスは申し分なく自分の役割を果たしました。

彼は、モスクワとロサンゼルス、そして試合が開催される地球の他の都市を行ったり来たりして、もう何年もアルマトイにずっといることはありませんでした。しかし、それでも自分の国に対して大きな責任を感じていました。世界中でカザフスタンのことを耳にしてもらえるようになって欲しい、アスタナやアルマトイの子供のスケーターたちに、トレーニングしたり試合に出たりするチャンスがあって欲しい、カザフスタンに控え選手を持つ強力な代表チームができて欲しいと。

彼が始めたこれら全てのことと、彼の功績を列挙していると、まだ彼がどのように去ったのかを話すのはとてつもなく不可解なことに思えます。デニスはアルマトイの中心地で昼食をとっていました。彼が外に出た時、2人の見知らぬ男が彼の車のミラーをひねっているのを見ました。そして彼らを止めようとしました。それで彼は太ももを刺されました。後に、犯人たちは、追跡を恐れていただけで誰も殺したくはなかったと言います。ナイフは大腿動脈を切断し、デニスは3リットルの血を失い、数時間後、蘇生中に亡くなりました。

デニス・テンがキャリアで2度参加者として出場したグランプリシリーズのモスクワ大会で、ファンたちは既に2年間、彼の名前のバナーを掲げています。モスクワはデニスにとってシンボリックな都市です。まさにここで、彼は、アメリカのフランク・キャロルのもとへ移る前に、彼を信じていたエレーナ・ブイアノワの指導のもとでトレーニングを始めました。ロシアのファンたちがいつもデニスを地元選手のように考えていたのは驚くことではありません。しかし、日本のファン、カナダのファン、アメリカのファンも同じですが。

2019年10月に、デニス・テンを記念する最初の試合 - デニス・テン・メモリアルチャレンジが開催されました。この試合は定期的に行われる予定です。

デニスは、毎年夏にカザフスタンで行われる、これまでにない全面観客席のアイスショー≪デニスと友達≫を発案し、設立しました。彼はそこに友達 - 全世界から最高のスケーターたちを招待しました。彼が亡くなった後、このショーは≪デニスの友達≫という名前になりました。昨年は、ケイトリン・ウィーバーとアンドリュー・ポジェ、浅田真央、ジェレミー・アボット、無良崇人、エレーナ・ラジオノワ、セルゲイ・ヴォロノフなどが出演しました。演技後、満員の観客席にお辞儀をしながら、彼らは涙を抑えることができませんでした。フィナーレでは全てのアーティストがカザフの民族衣装を着て氷に出ました。当然ですよね?デニスは何処に住んでいようと、誰と友達になろうと、彼はいつも自分をカザフ人だと感じていました。

デニス・テン脚本の映画は、既に撮影、編集され、配給の準備ができています。以前はスケーターの命日に上映予定でした。

- ティムール・ベクマンベトフが考え出したやり方はとても変わっているため、現在、映画配給に取り組んでいます。デニス・テンの脚本でティムール・ベクマンベトフが撮影した短編映画が25分あり、それからデニスの追悼で彼についての映画があります。

と、カザフスタンの映画関係者たちの会合で、国民映画国家サポートセンター長のグリナラ・サルセノヴァは言いました。

2019年1月、アルマトイの裁判所で判決が下されました。デニス・テンの殺人犯たちは18年の禁固刑を受けました。

殺される2日前にデニスが自分のインスタグラムで公開できた最後の写真には、既に4万件を超えるコメントが集まっています。人々からは、彼の親切な心、才能、育成への感謝が続いています。デニスのお母さんがこれら全ての言葉を読んでいるのかどうかはわかりませんが、家族や子供時代は、いつも彼にとって際限なく多くのことを示してきました。

- 僕にはとてもクールな家族がいます。 何処に行ったとしても、僕はこう言うことができます。:みなさん、みなさんは僕が母、父、兄と一緒でどんなに幸運かわからないでしょう。僕は人生を実際にただ楽しむという状況の中で育ちました。これは尊重し、評価しなければなりません。

2018年7月19日は、まだ些細な出来事の中で思い出されます。最初に事件についてのニュースが出た時、こう扱う確信がありました。:これは単なる間違いか、報道機関が勝手に騒いでいるか、もし全てが本当に冗談ではなくても、デニスはきっと危機を脱出する - 21世紀の白昼に大都市で2つの車のミラーの分の価値のナイフの傷で死んでしまうなんてありえないですよね?

 

デニス・テンはカザフスタンのフィギュアスケーターです。2014年の冬季オリンピック銅メダリスト、2013年フィギュアスケート世界選手権銀メダリスト、2015年世界選手権銅メダリスト、2015年四大陸選手権チャンピオン、第7回冬季アジア大会チャンピオン、ISU主催のさまざまな国際大会での複数回優勝者、5度のカザフスタンチャンピオン。