「フィギュアスケートの世界」の2021年1冊目はミーシン先生特集!
ミーシン先生ファンは見逃せませんね。
出てたのはちょっと前なのでもうご覧になっているかもしれませんが、いっぱいあるミーシン先生の記事から、プルとガチくんとリーザの言葉のところを訳します。
エフゲニー・プルシェンコ
2度のオリンピックチャンピオン – 2006、2014(団体)、オリンピック銀メダル – 2002、2010、3度の世界チャンピオン – 2000、2003、2004、7度のヨーロッパチャンピオン
コーチのミハイル・マコヴェーエフとヴォルゴグラードからサンクトペテルブルクへやってきた時、アレクセイ・ニコラエヴィチが彼のグループに自分を入れてくれるという自信はありませんでした。≪試してみましょう≫という教授の言葉は、私にとってフィギュアスケートの世界への通行許可証になりました。最初はマコヴェーエフがグループの練習に出席していました。そこには既にアレクセイ・ウルマノフやアレクセイ・ヤグディンがいました。
11歳から私は知らない街で暮らさなければなりませんでした。人生は大変で意地悪なものであり、太陽の下で居場所を得るために戦わなければならないことを知りました。洗濯、裁縫、料理を覚えました。母がやって来た時、共同住宅の部屋を借りました。サンクトペテルブルク社会の下層の人たちだけではなく、ネズミやラットたちが隣人でした。しかし、ミーシンの下での練習はこんな犠牲を払っても受ける価値のあるものでした。もしこの道を繰り返せと言われたとしても、1分たりとも躊躇しません。
母と私に全くお金がなくなってしまった時がありました。言葉通りの意味で、食べ物を買うものが何もありませんでした。ヴォルゴグラードの父に電話し、やっていけないと正直に打ち明けました。彼は私たちの列車の切符を買うためにお金を借りました。ミーシンにそのことをどう伝えればいいのかわかりませんでした。母が電話をして状況を説明しました。それに対してアレクセイ・ニコラエヴィチはこう答えました:≪あなたは大きな間違いを犯している。その子はとても有望だ。≫ そして言葉だけに留まりませんでした。彼がその時くれたお金でサンクト・ペテルブルクに残ることができました。もしそのお金がなかったなら、オリンピックチャンピオンの代わりに普通のヴォルゴグラードの労働者をみんなが知っていた(というよりは知らなかった)でしょう。
アレクセイ・ニコラエヴィチが最初から私と24時間365日練習してくれていたわけではありません。オーストラリアで開催された1996年の世界ジュニアに行った後、少し注意を向けてもらえるようになりました。当時私は13歳でした。私が優勝したソウルで開催された次の世界ジュニアの後にはさらに注意を向けてもらえました。15歳の時、私はミネアポリスで行われたシニアの世界選手権に初出場し、銅メダルを獲得しました。私たちの付き合いはトレーニングの時だけではありませんでした。ミーシンは私が自分の初めての稼ぎで買う部屋を選ぶのを手伝ってくれました。私にとってコーチは第二の父と言っても過言ではありません。
私が今あるのは振付師たち、ダヴィド・アヴディシュ、エフゲニー・セレジュニコフ、ユーリー・スメカロフ、ユーリー・ペトゥホフによるところが大きいですが、アレクセイ・ニコラエヴィチがいなければ彼らと関わることはなかったでしょう。私のスタイルを作り上げた振付師を見つけてくれたのは彼でした。フィジカルトレーニングのコーチたちを見つけ、トレーニングを多様化する可能性を模索していました…。そして、ミーシンはいつも大変な状況であっても必要な言葉を見つけてくれました。特にソルトレイクシティオリンピックの後です。私たちは共にこの簡単ではない時を乗り越え、トリノまでたどり着くことができました。
大変な時もありましたし、練習中に口論になったこともありますが、コーチを変えようと思ったことは一度もありません。おそらく、20年に渡るフィギュアスケートでの協力関係は、アレクセイ・ニコラエヴィチと私にしかないものでしょう。
ミーシンは生きていて、とても大事なのはフィギュアスケートで生き続けているということです。現在、教授はとても元気です。アレクセイ・ニコラエヴィチに息子を教えて欲しいです。
アルトゥール・ガチンスキー
2011年世界選手権銅メダリスト、2012年ヨーロッパ選手権銀メダリスト、≪スターアイス≫のコーチ
母と私がモスクワからサンクト・ペテルブルクへ引っ越した時、私は8歳でした。アレクセイ・ニコラエヴィチとタチアナ・ニコラエヴナ・ミーシナのテストのために呼ばれました。子供の頃の私の憧れはエフゲニー・プルシェンコでしたが、アレクセイ・ニコラエヴィチが自分のグループに私を入れてくれるという確信はありませんでした。最初は彼のアシスタントたちが私を教えてくれました。でも、彼のグループでトレーニングしていて、自分への配慮が足りないと感じたことは一度もありません。アレクセイ・ニコラエヴィチの褒め言葉はとても価値あるものでした。
私の全盛期はプルシェンコがバンクーバーオリンピックの後少し休養して、その後戻ることにした頃でした。アレクセイ・ニコラエヴィチからの注目は高まりましたが、自分がグループのスターだと感じたとは言えません。ミーシンの所にはそういうステータスの人はいません。こう思った時がありました:何かを変えて他のコーチとの練習を試してみなければならない。このことについてアレクセイ・ニコラエヴィチがどう思っていたのかわかりません。彼は私と話す時、この話題に触れたことがありません。
彼のチームで仕事をするという誘いは、私にとって全く予期せぬことでした。モスクワに戻り、私は電話番号を変えていました。ミーシンは母と連絡を取り、自分の提案を伝えました。アレクセイ・ニコラエヴィチの指導の下で働くのは、彼のトレーニングを受けるくらい難しいことです。彼はただ教授と呼ばれているわけではありません。今、私はレスガフト大学で勉強を続けていますし、正直に言うと、コーチであり師であるアレクセイ・ニコラエヴィチ・ミーシン教授が出すことになる試験を、少し不安な気持ちで待っています。
エリザベータ・トゥクタミシェワ
2015年ヨーロッパ&世界チャンピオン
2021年世界選手権銀メダリスト
グラゾフからサンクト・ペテルブルクへ引っ越した時、アレクセイ・ニコラエヴィチ・ミーシンがどんな人なのかまだあまりわかっていませんでした。彼は厳しく近寄り難い人のように思えました。何年も一緒に練習して、全くそうではないと確信しました。私が成長するにつれて、私たちの関係は変わりました。私は心を開き、アレクセイ・ニコラエヴィチは私のことをますます理解してくれました。今は≪コーチと生徒≫の絆が完全に調和していると言えます。
もしミーシンの特徴を3つ挙げるとしたら、まずは自分の生徒の気持ちをわかってくれるところでしょう。そして、アレクセイ・ニコラエヴィチは、気分が乗らない時でさえトレーニングを最大限有意義に行える言葉を、必要な時に見つけることができます。そして、もちろん彼の楽観的なところはとても助けになります。