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ミーシン先生の本より、バンクーバー - 歴史のジグザグ1

かなり間が空きましたが、トリノ - 計画された勝利7のつづきです。


バンクーバー。歴史のジグザグ

 トリノで勝った後、ジャーナリストたちも専門家たちも私の所に来ました。彼らの多くが、ジェーニャの存在が、ロシアの男子シングルを遅らせていて、彼がいなくなれば、新しい才能ある若い世代のために道が開けると思っていました。まるで彼が道を譲らなかったかのように。プルシェンコはいなくなりました。道は開けました。この道を、その才能ある選手たちは、かなりゆっくりと、それほど遠くないところを走り出しました。数年後、バンクーバーオリンピックまでの途中で、ロシアのスケーターたちは、シーズン最大の大会、世界選手権の唯一の切符を得ていました。

 2009年9月、ノヴォゴルスクのリンクで恒例の代表チームのテストスケートが行われました。参加者には、トレーニングに取りかかったばかりのジェーニャもいました。リンクに居合わせたヴァレンチン・ピセーエフは、青年たちを見て、頭をかかえてこう言いました。≪彼らは3年間何をしていたんだ?!ほら、プルシェンコは既に彼らよりも上手いじゃないか!≫

 そして実際、エフゲニーの人格の強みの一つにもう一度注目しましょう。彼は自分の存在でライバルたちを抑えることができました。

 その時、ノヴォゴルスクで滑ったスケーターたちの一人に、セルゲイ・ヴォロノフもいました。この全体的に良いスケーター、そして普通の青年に関して少し余談をお話ししたいと思います。選手の運命は、そのキャリアが重なった歴史の切断面も含めて決まると既にお話ししました。ついていない運命の顕著な例は、セルゲイのスポーツ人生です。彼は12年間ロシアのトップでしたが、彼は、どの選手にとっても最も重要な大会、オリンピックに運命付けられていませんでした…。

 彼はバンクーバーには行きませんでした。なぜなら、ちょうどその時、フィギュアスケートの地平線からすぐに姿を消した、若いアルチョム・ボロドゥリンに取って代わられたからです。ソチでは、私は直接彼のオリンピック証明書を見ました。それは、その時、なぜかモスクワでもエカテリンブルクでも生存確認できなかった、マキシム・コフトゥンの代わりに発行されたものでした。しかし、個人競技での交代資格に抵触したため、この証明書は未使用のままでした。

 3度目は韓国でのオリンピックの前に起こりました。シーズン前半は自信を持って過ごし、ロシア人で唯一、グランプリファイナルに出場しましたが、彼はロシア選手権で負けました。ドミトリー・アリエフとミハイル・コリャダの悲惨過ぎる滑りの後、オリンピック証明書は既にヴォロノフのポケットに入っているのは明らかでしたけれども。しかし、そこで運命の悪魔がそれを奪いました。彼は考えられる中で一番ひどい滑りをしました。

 …私たちは復帰のための練習を始めました。その主な目標はバンクーバーでなければなりませんでした。しかし、ジェーニャが最終的に引退するとはまだ言わないと決めた時、男子シングルスケートで、ひとつひとつの技術要素の重要性を評価するシステムの状況は劇的に変わっていました。


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